「試練と喜び」
「クリスチャンとしての歩み」
「愛される存在」
「わたしは世の光である」
「いのちの光」


「試練と喜び」
 おはようございます。忙しい日が続いていますが、お元気でしょうか。今日も聖書から学んでいきましょう。今日の聖書箇所はペテロの第一の手紙1章1節〜8節です。皆で一緒に読みましょう。


イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ピテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。


 この手紙はペテロによって書かれ、激しい迫害の中でも信仰を守るために、各地に散らばっていたユダヤ人クリスチャン、またイエス・キリストを信じている異邦人クリスチャンたちに向けて書かれた手紙です。書かれたのは紀元65年頃と言われていて、ネロがローマ皇帝の時にローマの大火があり、クリスチャンが放火犯であるとされ、大迫害が始まりました。その時にペテロが、小アジヤ地方にいるクリスチャンたちへ、励ましと勧めの言葉として書いたのがこの手紙だと言われています。聖書には誰が迫害していたか等、詳細なことは書かれていないので聖書以外の資料から推測することになるのですが、迫害があったということが聖書から読み取ることができます。迫害地域への手紙ということもあって、この手紙の中で、「苦しみ」という言葉や、「苦難」、また「捕らえられている人々」、「自分の財産が奪われても」と言った表現が何度か出てきますが、ペテロはそのような苦しみの状況下でも、この手紙を通して創造者のみこころ、つまり神様が思われていることが何であるのか、また私たちがどう歩むべきであるのかを教えています。 この手紙はユダヤ人クリスチャン、また異邦人クリスチャンに向けて書かれていますが、これは当時のクリスチャンだけではなく、今の時代に生きるわたしたちにも同じ重みのある手紙です。

 今日読んだ1章の前半部分から、「試練と喜び」という題で、3つのポイントから確認していきたいと思います。

 まず1つ目は、私たちは「神様に選ばれた存在である」ということです。1節、2節に、イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ、と書かれています。私たちが今救われて、クリスチャンとして歩んでいるのも、そして今この場所で一人一人が召しや思いが与えられて共に学んでいるのも、すべては神様の選びから始まっています。人間の頭では考えが及ばない、神様の次元での選びですが、私たちはこのことを再度知り、確認していきましょう。

 2つ目のポイントは、神様は私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つ者とされている、ということです。
3節に「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」と書かれています。神様は罪によって死んでいた私たちを、新しく生まれさせてくださいました。またそれだけでなく、生ける望みを持つようにしてくださいました。私達はみんな罪人です!ということを突然言われても、ノンクリスチャンの人たちなら何のことかわからないし、もしかするとクリスチャンでもピンと来ない人がいるかもしれませんが、私達は例外なくみんな罪人です。大きな罪は犯したことがなくても、たとえ小さな罪であったとしても、神様から見たら同じ罪です。このように本来なら救われることもなかったのに、神様は私たちをあわれんで下さって、新しく生まれさせ、生ける望みを持つようにしてくださいました。この生ける望みというのは永遠にわたる望みでもあります。私達には永遠の望みが与えられています。

 3つ目のポイントは、試練の中でも喜べる者となる、ということです。神様は時に私たちを様々な試練の中に置かれることがあります。振り返れば本当に小さな、些細なことであったとしても、目先のことに目がいき、気持ちがいっぱいになってしまうだけでなく、信仰そのものが大きく揺さぶられるような試練に遭遇した方もいるかもしれません。ペテロは6〜7節で、私たちの人生には信仰の試練があることを語っています。時として大きく信仰が揺さぶられ、神様の存在さえ疑問に思えたり、神様のみこころがわからなくなってしまうような苦しい試練にもあうかもしれません。しかしペテロはこの試練を否定的な意味では書いていません。現実に迫害にあっている人々に送ったこの手紙の中で、「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れの時に称賛と光栄と栄誉になることがわかる」と書いています。この信仰の試練がイエス・キリストの現れの時に称賛と光栄と栄誉になるとは、普通に考えたら理解するのが難しいのですが、ある解説書によると、金が火に通されると、金箔が出てくるそうです。このことから不純物が取り除かれる、という意味があるようです。私たちも信仰の試練にあう時、この試練を通して神様に対する私達の不信仰な部分が取り除かれ、信仰が強められます。イエス様以外に救いはないし、私たちが頼るべきお方は神様ただお一人です。この神様に信頼し、祈り、従っていくようになることで信仰が強められます。またこのイエス様の血潮により罪が赦されただけでなく、神様の御力によって守られ、終わりのときに用意されている救いをいただくという神様からの約束に立つことができるし、その結果、力強く歩むことができるようになります。ヤコブの手紙には「試練にあうときは、大いに喜びなさい」と書かれていますが、この試練を通して私たちの信仰が精錬され、強められていき、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉を受け取ることができるという確信が与えられて、試練の中でも喜ぶことができる者とされます。

 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見ていないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 私達はイエス様を見たことはないけれども愛しているし、見たことはないけれども信じています。このイエス様が今日もわたしたちと共に歩み、支え、力づけてくださっています。信仰の試練にあうような時があっても、主を信頼していきましょう。また主から与えられているこの召しに従い、信仰によって力強く歩み、日々栄えに満ちた喜びに満たされた者とされていきましょう。


タンチョウ(丹頂)


※2010年6月9日KBI学年別メッセージを一部編集
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「クリスチャンとしての歩み」
 おはようございます。今日はヨハネの手紙第一1章から聖書を学んでいきたいと思います。短いので1章をみんなで読みましょう。


 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
−このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。−
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにはありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。


 ありがとうございます。このヨハネの手紙第一は、「ヨハネ」とは書かれていますが、今読んで気づいたかもしれませんが、この書簡の中には筆者が誰なのかということは書いてありません。また誰に当てて書かれた手紙なのかという具体的な記述もありません。ただ当時からヨハネが書いたものであると認められていました。執筆時期は85年〜95年頃とされていて、新約聖書の中でも最も後に書かれたものの一つとされています。この手紙の背景にあるのは、キリスト教誕生から60年〜70年が経ち、キリスト教がローマや多くの地方で重要な宗教となると同時に強い影響力を持つようになりました。またその広がっていく過程で哲学や様々な思想と福音が結び合わされてしまい、間違った教え、異端ですね。この異端を念頭において書かれています。異端の一つに挙げられるのが哲学とキリスト教を混ぜ合わせたグノーシス主義で、この前の組織神学の講義の際にケリントス主義というのを学んだと思います。神はキリストにおいて実際に肉となられたのではなく、キリストは人のように見えるだけの幻影であったと主張したり、神なるキリストがバプテスマにおいて人間イエスに加わり、イエスが死ぬ前に彼から離れたとか・・・とにかく今私達が見聞きしているのとは全く違う教えが広がっていました。この間違った教えに対して、イエスがどのようなお方であったのかというのがこの手紙に書かれてあります。今日読んだ1章から、最初にヨハネが語るイエス様のことを少し学んだ後、クリスチャンとしての歩み、というテーマで聖書を学んでいきたいと思います。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。
(ヨハネの手紙第一1章1節〜4節)

 筆者であるヨハネが実際に耳で聞き、目で見て、じっと見て、また手で触れることができた。実際に存在したもの、この方を伝えます、と語っています。耳で聞くということは聴覚ですし、目で見るということは視覚です。手で触れることができるとは触覚です。近くにいたんだからもしかしたらニオイも嗅げたでしょう。嗅覚もです。五感のうち四感を使って実際に彼が見たイエス様がどんな方であったかをここで語っています。誰にでしょうか。それはイエス様を直接見たことがない方々だと思われます。キリスト教が成立してから60年〜70年と月日が経ち、クリスチャンの中にも第2世代、第3世代が生まれていました。初代のクリスチャン達は実際にイエス様と出会い、直接福音を聞き、イエス様に触れることができました。癒しも体験したことでしょう。イエス様からの直接の慰めも、励ましも体験できたでしょう。そのイエス様の復活もこの目で確かめることができました。中には聖霊が最初に下った時に、その場所にいた方もいたでしょう。実際に体験し、経験したからこそ、情熱もすさまじかったのではないかと想像できます。しかしこの手紙が書かれた当時は、第2世代、第3世代となり、直接イエス様と会うことができなかった世代の方々に、私たちの喜びが全きものとなるように、あなたがたに伝えます、とこの手紙を書き送りました。

 それでは、クリスチャンとしての歩むべき姿を5、6節以降から学んでいきましょう。1つ質問ですが、皆さんはクリスチャンでしょうか。救われているでしょうか。いつも光の中を歩んでいるでしょうか。闇の中を歩んでいる時はないでしょうか。6節に、

もし神と交わりがあると言っていながら、しかも闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。

と書かれています。簡単に言うと、毎週教会に来て神様を礼拝していたとしても、口ではイエス様を信じている、信仰がある、もう救われているんだ言っていたとしても、日常生活が罪にまみれていたり、神様に背を向けて歩いているようなら、それは真理を行っていることにはなりません。それは偽りを言っていることになります。教会に来ている時はクリスチャンのように生活し、教会に来ていない時はノンクリスチャンと同じ生活をする。信仰のない人々と同じような歩みを続けている。そのように生活を使い分けていることはないでしょうか。二つの顔を持つ人になっていないでしょうか。本音と建前という言葉があるように、罪を犯すか否かに関わらず、ほとんどのクリスチャンが教会での生活と、教会の外での生活を使い分けているのではないでしょうか。中には闇の中を歩んでいる方もおられると思います。

 私はクリスチャンホームに育ち、小さい頃から教会に通っていました。その中で、二つの顔を使い分けることが出来ました。小さい頃は素直に、外でもイエス様のことを話したり、光の子供らしく歩めていたのです。ただ自分でも気がつかないうちに教会の外では世の中にどっぷりと漬かっていくようになりました。大学に入ってからは特にどっぷりと漬かっていたのですが、そのような中でも教会に来ていた時は普通のクリスチャンを演じることができました。使い分けが上手でした。罪は赦されるんだから、という変な信仰を持っていた時期もあったぐらいです。神様はこのような変な信仰や、本音と建前のように使い分けの上手下手をどのように思われるでしょうか。そのようなものは神様の目には偽り者であり、真理を行っていない者だと見なされます。私たちのクリスチャンとしての歩みをもう一度確認してみる必要がないでしょうか。

 7節には、もし私たちが、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。神様は光の中を歩まれています。私たちは闇の中ではなく、光の中を神様と共に歩む者とされていきましょう。光の中を歩むと、今まで気づいていた以外にも、多くの自分の罪の汚れに気づいて悲しんだり苦しんだりもするでしょう。でもイエス様の十字架で流された血が、私たちをすべての罪からきよめてくださいます。これは聖書に何度も書かれている約束であり、神様が語られていることであり、誰も否定できない真理です。

 続いて8節、10節には罪に対して私たちが取るべきではない態度も書かれています。8節には、罪はないと言う人、つまり罪の心は持っていないという人について語り、10節には罪の心は持っていても、実際には罪は犯していないという人について語っています。ヨハネがあえて書くぐらいなので、もしかしたら自分には罪の心がない、罪は犯していないと語っていた人が当時からいたのかもしれません。しかも「私たち」と書いてあるので、おそらく当時、クリスチャンとして歩んでいる人たちの中で、このように「自分には罪はない」と考えている方がいたことがわかります。クリスチャンとして歩んでいても、自分には罪なんてないし、そんなに悪いことはしていないという人もいるかもしれません。
しかし聖書はこう語っています。「義人はいない」。神様の前に正しい人は一人もいません。すべての人が神様の前に罪を持っています。もし罪はないと言うのなら、真理はその人たちのうちにはありません。罪を犯していないというのなら、それは神を偽り者としているとまで、ヨハネは語っています。

 また人間の行動として、「やっていない」と否定するだけなく、多くの場合は「そんなこと知らない」と、つまり罪そのものを隠してしまうことがあります。有名なところではアダムとエバも罪を犯した後神様から隠れたし、罪を隠そうとしました。人には隠せても、神様には隠せません。神様の前に罪は明らかになるからです。人間は罪の性質を持っていて、誰もが罪人です。そして日々罪を犯し続けてしまう者です。本当に弱い存在です。しかしイエス様の十字架によって私たちには救いが与えられています。これが私たちの希望です。9節を一緒に読みましょう。


もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。


 この御言葉は、私自身が5年程前に読んで、自分の罪は赦されるんだと思わされた箇所です。当時の私は失恋後まもなく、次の恋を探していました。その恋を探す過程で、自分の心の醜さというものに気づかされ、罪をいっぱい犯し続けたし、自分は本当に罪人だと思わされました。でもイエスキリストの十字架の血潮で私たちは清められます。罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます。

 今日もう一度自分のクリスチャンとしての歩みを確認していきましょう。クリスチャンとしての顔と、教会以外での顔。また思い当たる罪があるならば神様の前に告白していきましょう。神様は真実で正しい方ですから、罪を赦して、すべての悪から私たちを清めてくださいます。闇の中を歩むのではなく、神様と共に光の中を歩む者とされていきましょう。

モエレ山


※2010年10月13日KBI学年別メッセージを一部編集
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「愛される存在」
 札幌で有名な観光地の一つに、羊が丘展望台、という場所があります。ここには、北海道大学の前身である札幌農学校の教頭も務め、札幌を去る時に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」という言葉を残したことでも知られるクラーク博士の銅像が建てられています。また「羊が丘」という名前のように、広い草原に「羊」が放されていて、見るものを楽しませてくれます。この羊、現在の日本では約1万6000頭が飼われているそうですが、そのうちの約半数が北海道で飼育されています。食文化にもなっていますし、他の地域と比較しても、北海道では「羊」という動物が少しだけ身近な存在なのです。

 聖書の中にも、この「羊」という動物が度々登場します。ある時イエス様がこのようなたとえ話をされました。あるところに百匹の羊を飼っている人がいました。この人にとって、この羊一匹一匹がかけがえのない存在でした。愛する存在だったのです。ところがこのうちの一匹が群れから離れていなくなってしまいました。飼い主から離れて迷子になってしまったのです。迷子になった羊を探すため、この人は迷子になっていない99匹を残して、一匹を探しに出かけていきます。そうしてついに迷子の羊を見つけ、大喜びで帰っていくというお話です。

 このたとえ話を身近なものに置き換えてみるとわかりやすいかもしれません。自分がとても大切にしているものがなくなってしまった時、あなたはどうされるでしょうか。例えばお子さんがいる方の場合。一緒にいると思った子どもが気がついたら離れていて、迷子になってしまっていたら・・・。見つかるまで探し歩き、見つかると安心して喜びで心が満ち溢れるのではないでしょうか。

 この例えに登場する羊を飼っている人とは、イエス様のことを表しています。羊とは、私たちのことです。イエス様は私たち一人一人のことをかけがえのない存在として、また愛する存在として慕われています。羊がその飼い主によって道を示されていくように、私たちがイエス様とともに歩む時、私たちは歩むべき道を教えられ、また守られ、励まされます。イエス様の大きな愛の中を歩むことができます。また迷子になった一匹の羊のように、まだイエス様を知らないで歩んでいる方であったとしても、イエス様はあなたを愛して下さっていて、あなたとも共に歩みたいと思われています。イエス様にとって、あなたはこの世界でたった一人の存在だからです。

人の子は、失われている者を救うために来たのです。(マタイ18:11)

まだイエス様と出会っていない方が出会うことができるように、出会っている方がこれからもイエス様と共に歩み続けることができますように!お祈りしています!!

羊が丘


※2011年3月5日西宮福音教会テレフォンメッセージを一部編集
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「わたしは世の光である」
 私は北海道は札幌の出身なのですが、6月下旬の初夏の頃から、北海道には大勢のライダー達がフェリーに乗ってやってきます。ライダーとはバイク乗りの方々のことですが、富良野や美瑛の花や丘の道、十勝平野の牧草地帯の中を気持ちよく走り抜けていく姿をよく見ることができます。また世界自然遺産にも登録された知床半島の南西に位置する中標津町には、ライダーの聖地と呼ばれている場所があります。開陽台とよばれるその地の展望台からは遙かに地平線を望むことができ、思わず「おぉ!」と声が出てしまうような絶景です。数年前に私もその地を訪れたことがあるのですが、本当に絶景でした。また夜は満天の星空が見えるということを聞き行ってみましたが、昼間とは打って変わり、辺り一面、明かりもなく、闇に覆われているという表現がズバリ当てはまるような暗さでした。足もとも全く見えないので歩くことも困難な状況でした。幸い車に懐中電灯を載せておいたので、懐中電灯を手に取り、足もとを照らしながらゆっくり展望台へと続く道を上がって行ったことを覚えています。ほとんどの方が体験したことのないような闇でしょう。

人生の歩みを進めている中で、どのようにして良いかわからない、どうしょうもない不安に襲われる、また現実的に様々な問題が重なって落ち込んでしまったり、また生きる希望を失うような時がないでしょうか。どのように歩んで良いか、進んで良いかわからない、何を持ってしても埋めることができない、心にポッカリと穴が空いたような感覚。苦しいけれど、これはどうしょうもないと諦めている方。人生なんてこんなもんだと思ってしまっている方。どうせ自分なんてと思っている方。誰からも愛されていないと感じている方。私は関係ないから、と思われる方もいるかもしれませんが、聖書には次のように書かれています。


「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)


これはイエス・キリストが語られた言葉です。イエス様に従うと、闇の中を歩むことがなく、光の中を歩むことができます。たとえ今、闇の中を歩いていても、イエス様のもとに来ると、その光に照らされて歩むことができるようになります。どの道を歩いて良いかわからなくても、イエス様は「わたしが道だ」といつも語っておられます。イエス様に従うと、人生に希望が与えられます。イエス様が語られた言葉に従うと、進むべき道が与えられ、光に照らされた中を歩むことができます。イエス様に従いたいと思っておられる方に、イエス様は微笑みながら両手を大きく広げて待っておられます。イエス様と共に、光の中を歩める者となりましょう。


開陽台(かいようだい)


※2010年6月27日西宮福音教会テレフォンメッセージを一部編集
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「いのちの光」
 札幌の中心部ではこの時期、ホワイトイルミネーションというイベントが開催されています。札幌を南北に分ける大通公園や札幌駅前通を中心に、様々な光のオブジェが観光客や札幌市民を楽しませてくれます。またこれから12月、1月と雪が降り積もってくると、そのイルミネーションの美しさがより際立ってきます。雪が降り積もる地方に住んだことがある方はご存知かもしれませんが、冬になると夜になっても外が明るく見えます。それは街灯の光が地面に積もった雪に反射し、また路肩に高く積まれた雪にも反射するからです。降りたての雪であればあるほど、白ければ白いほどよく反射し、たとえ夜でも外が明るく見えるという不思議な現象が起こります。たった一つの街灯の明かりだったとしても、その周囲をより明るくすることができるのです。そのお陰か札幌の街を彩るホワイトイルミネーションの輝きも、雪が降り積もる頃には何倍もキレイに見えてきます。

 12月に入りクリスマスシーズンも真っ只中ですが、皆さんはクリスマスの本当の意味をご存知でしょうか。キリスト教や教会と何か関係がある時だとボンヤリとは知ってはいても、本当の意味をご存知の方は意外と少ないのではないでしょうか。家族や友人、恋人と一緒に過ごすのも良いですが、このクリスマスという日は、私達にとってもっと素晴らしい意味がある日です。今から約2000年ほど前に、イスラエルのベツレヘムという町で、イエス・キリストという方が生まれました。クリスマスはこのイエス・キリストというお方の誕生を記念しお祝いする日なのです。聖書の中に、このイエス・キリストについて次のように書かれています。


「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4〜5)


 街灯が一つでもあると、そこはもはや暗闇ではなくなるのと同じように、私達の歩みの中でも、私達を照らす光があれば、暗闇の中を歩むことがありません。たとえ真冬のように冷たい雪が横殴りに降り付けるような中を歩んでいると思われる方でも、悩みや苦しみ、失望、喪失感、真っ暗闇だと思えるような中を歩まれている方であったとしても、暗闇の中に輝く街灯のように私達を照らす光があります。それはイエス・キリストです。このイエス・キリストに出会うなら、私達の人生にも明かりが灯ります。


「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4〜5)


皆さんがこの「いのちの光」であるイエス・キリストと出会い、希望に満ちあふれた人生を歩むことができますようにお祈りしています。皆さんの上に神様の豊かな祝福がありますように!


さっぽろホワイトイルミネーション


※2010年12月11日西宮福音教会テレフォンメッセージを一部編集
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