おはようございます。忙しい日が続いていますが、お元気でしょうか。今日も聖書から学んでいきましょう。今日の聖書箇所はペテロの第一の手紙1章1節〜8節です。皆で一緒に読みましょう。
イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ピテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
この手紙はペテロによって書かれ、激しい迫害の中でも信仰を守るために、各地に散らばっていたユダヤ人クリスチャン、またイエス・キリストを信じている異邦人クリスチャンたちに向けて書かれた手紙です。書かれたのは紀元65年頃と言われていて、ネロがローマ皇帝の時にローマの大火があり、クリスチャンが放火犯であるとされ、大迫害が始まりました。その時にペテロが、小アジヤ地方にいるクリスチャンたちへ、励ましと勧めの言葉として書いたのがこの手紙だと言われています。聖書には誰が迫害していたか等、詳細なことは書かれていないので聖書以外の資料から推測することになるのですが、迫害があったということが聖書から読み取ることができます。迫害地域への手紙ということもあって、この手紙の中で、「苦しみ」という言葉や、「苦難」、また「捕らえられている人々」、「自分の財産が奪われても」と言った表現が何度か出てきますが、ペテロはそのような苦しみの状況下でも、この手紙を通して創造者のみこころ、つまり神様が思われていることが何であるのか、また私たちがどう歩むべきであるのかを教えています。
この手紙はユダヤ人クリスチャン、また異邦人クリスチャンに向けて書かれていますが、これは当時のクリスチャンだけではなく、今の時代に生きるわたしたちにも同じ重みのある手紙です。
今日読んだ1章の前半部分から、「試練と喜び」という題で、3つのポイントから確認していきたいと思います。
まず1つ目は、私たちは「神様に選ばれた存在である」ということです。1節、2節に、イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ、と書かれています。私たちが今救われて、クリスチャンとして歩んでいるのも、そして今この場所で一人一人が召しや思いが与えられて共に学んでいるのも、すべては神様の選びから始まっています。人間の頭では考えが及ばない、神様の次元での選びですが、私たちはこのことを再度知り、確認していきましょう。
2つ目のポイントは、神様は私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つ者とされている、ということです。
3節に「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」と書かれています。神様は罪によって死んでいた私たちを、新しく生まれさせてくださいました。またそれだけでなく、生ける望みを持つようにしてくださいました。私達はみんな罪人です!ということを突然言われても、ノンクリスチャンの人たちなら何のことかわからないし、もしかするとクリスチャンでもピンと来ない人がいるかもしれませんが、私達は例外なくみんな罪人です。大きな罪は犯したことがなくても、たとえ小さな罪であったとしても、神様から見たら同じ罪です。このように本来なら救われることもなかったのに、神様は私たちをあわれんで下さって、新しく生まれさせ、生ける望みを持つようにしてくださいました。この生ける望みというのは永遠にわたる望みでもあります。私達には永遠の望みが与えられています。
3つ目のポイントは、試練の中でも喜べる者となる、ということです。神様は時に私たちを様々な試練の中に置かれることがあります。振り返れば本当に小さな、些細なことであったとしても、目先のことに目がいき、気持ちがいっぱいになってしまうだけでなく、信仰そのものが大きく揺さぶられるような試練に遭遇した方もいるかもしれません。ペテロは6〜7節で、私たちの人生には信仰の試練があることを語っています。時として大きく信仰が揺さぶられ、神様の存在さえ疑問に思えたり、神様のみこころがわからなくなってしまうような苦しい試練にもあうかもしれません。しかしペテロはこの試練を否定的な意味では書いていません。現実に迫害にあっている人々に送ったこの手紙の中で、「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れの時に称賛と光栄と栄誉になることがわかる」と書いています。この信仰の試練がイエス・キリストの現れの時に称賛と光栄と栄誉になるとは、普通に考えたら理解するのが難しいのですが、ある解説書によると、金が火に通されると、金箔が出てくるそうです。このことから不純物が取り除かれる、という意味があるようです。私たちも信仰の試練にあう時、この試練を通して神様に対する私達の不信仰な部分が取り除かれ、信仰が強められます。イエス様以外に救いはないし、私たちが頼るべきお方は神様ただお一人です。この神様に信頼し、祈り、従っていくようになることで信仰が強められます。またこのイエス様の血潮により罪が赦されただけでなく、神様の御力によって守られ、終わりのときに用意されている救いをいただくという神様からの約束に立つことができるし、その結果、力強く歩むことができるようになります。ヤコブの手紙には「試練にあうときは、大いに喜びなさい」と書かれていますが、この試練を通して私たちの信仰が精錬され、強められていき、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉を受け取ることができるという確信が与えられて、試練の中でも喜ぶことができる者とされます。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見ていないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
私達はイエス様を見たことはないけれども愛しているし、見たことはないけれども信じています。このイエス様が今日もわたしたちと共に歩み、支え、力づけてくださっています。信仰の試練にあうような時があっても、主を信頼していきましょう。また主から与えられているこの召しに従い、信仰によって力強く歩み、日々栄えに満ちた喜びに満たされた者とされていきましょう。
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タンチョウ(丹頂) |
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