罪人のかしら。
今日の日誌はまとまりません。
始めに書いておきます。(^^;
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」
ということばは、まことであり、
そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人のかしらです。
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、
イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを
得ようとしている人々の見本にしようと、
まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
Ⅰテモテ1:15~16
別の箇所では、こう書いています。
私は使徒の中では最も小さい者であって、
使徒と呼ばれる価値のない者です。
なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、
わたしはほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。
しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
Ⅰコリント15:9~10
今日は聖日礼拝の司会でした。
数日前、聖日礼拝のための賛美を選んでいる時に、
ふと「世には良き友も(聖歌519番)」の歌詞が目に留まった。
世には良き友も かずあれど
キリストにまさる 良き友はなし
罪人のかしら われさえも
友と呼びたもう 愛の深さよ
あぁ我がため 命をも
捨てましし友は 主なる君のみ
・・・良い賛美ですよね。
最近「罪人のかしら」というフレーズが頭の中で巡っています。
パウロは自身のことを「罪人のかしら」だと告白した。
でも同時にキリストの愛によって罪赦された者であるとも告白した。
パウロのように・・・。
罪赦された者として、もっと感謝して歩みたい。
賛美をうたいながら、そんなことを考えてしまいました。