イエスは主。
- 2011/08/17 04:15
眠れないので、書きます。
先日、ロイドジョンズ博士の「栄えに満ちた喜び」という本を読んだ。
副題は「聖霊のバプテスマとは何か」だ。
聖書が「聖霊のバプテスマ」について何と言っているのか、
ロイドジョンズ博士が熱く語っている。
ハンパなく、難しく感じた。
それでも考えさせられることが多々あったし、
多くのことに気づかされた。
その一つをシェア。
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』
と言うことはできません」 コリント2 12章3節
この箇所を単純に理解していた。
御霊によるのでなければ、御霊の内住がないのであれば、
「イエスは主です」と告白できないのだから、
「イエスは主です」と告白できることは、
クリスチャンである証なのだ~~と。
ごくごく単純に、素直に、信じていた。
深くではないけれども、信じていた。
ロイドジョンズ博士の本によると、
「イエスは主です」と告白できても、クリスチャンではないことがある。
・・・・と書いていた。
聖書をあまりにも軽く読みすぎていた。
聖書が書かれた当時、この「イエスは主です。」という告白は、
現代に生きる私たちがする告白とは重みが違った。
初代教会のクリスチャンの多くが殉教したのは、
この「イエスは主です。」と告白したことが理由だった。
当時はローマ皇帝が「主」であった。
「イエスは主です」とは、命がけの告白だった。
以下、ロイドジョンズ博士の本の本文から引用。
「もし1世紀の古代世界で、『イエスは主です』とあなたが言えば、
それは殉教を意味した。
あなたがユダヤ人なら、家族からの追放、
家系からの名前の抹消を意味した。
『イエスは主です』と言う人は、その生涯を主に明け渡し、
教会に加わり、たびたび迫害に会い、嘲られ、誤解されるのである。
・・・・これは究極の告白である。
信仰を受け入れただけでなく、自分自身を委ね、
のしかかる自分の望みや恐れのすべてを主イエスに委ね、
自分の十字架を背負い、主に従うということなのである。」
聖書を簡単に読みすぎていた。
自分は果たして明け渡しているだろうか。
「イエスは主です。」
と、本気で告白できる歩みをしているだろうか。
考えさせられた。