天地創造から始まる創世記50章の中で、
37~50章の後半部分にヨセフの生涯が描かれている。
父ヤコブに溺愛され、兄達に激しく嫉妬され、憎まれ。
兄達に奴隷として売り飛ばされ。
誠実に仕えていた主人から、無実の罪で牢獄に入れられ・・・。
そして最後はエジプトの総理大臣となったヨセフ。
遠藤嘉信先生の著書の中に「ヨセフの見た夢」という本がある。
この本はヨセフの生涯を扱った連続講解説教集だ。
普段何気なく読むだけでは気づけない聖書の奥深さに、
先生の著書を通して何度も気づかされる。
今日はその一部を紹介します。
長いですが、創世記41章の箇所からです。
「さて、ヨセフ物語の41章の冒頭の『それから二年の後』という書き出しに目を留めていただきたいと思います。ヨセフは、兄弟たちによってエジプトに売られてきました。初めエジプトでとても親切なポティファルという主人に奴隷として雇われました。
神がヨセフとともにおられたと、聖書は何度も繰り返します。ところが、彼はポティファルの奥さんの怒りに触れて監獄に入れられてしまいます。状況はますます悪くなっていきます。兄弟たちにいじめられ、傷つけられ、家族から引き離され、しかも見知らぬ地で誠実に生きた結果誤解され、今度は監獄生活です。
ただ不思議なことに、そうなっても聖書の記者は、『主は彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった』と主張し続けます。
やがて、エジプトの王のパロのもとで働いていた献酌官と調理官が同じ牢にやってきます。ある意味でヨセフに出所のチャンスが来たかのように見えました。献酌官がパロのもとに復職することがわかりました。ヨセフは必死になって自分の無実を訴え、パロの権威によって牢獄から出してもらいたいと嘆願します。献酌官には、ヨセフの真実と誠実さが確かに伝わったはずです。ところが、彼は、自分が出所できた喜びと新しい責任への緊張からでしょうか、ヨセフのことをすっかり忘れてしまいます。ヨセフには大きな期待がありました。これ以外に脱出の可能性がないと思ったでしょう。手に入れることのできる自由が目の前にあると感じました。しかし、その後何の音沙汰もないのです。
そして、聖書は『それから二年の後」と、淡々と、何の解釈もつけずに語り始めるのです。ヨセフにとってこの二年間は、それまでの十年以上のエジプトでの歩みよりももっと長く感じられたことと思います。
この『二年間』は何のための二年間だったのでしょうか。聖書は何も語りません。しかし、神の御手の中で許されたそういう時の経過が実際の私たちの歩みの中にもあります。そうした時の経過にも、たとえ生涯その意味を知ることがないとしても、必ず主のご目的があります。隠された神の知恵があるということです。」
遠藤嘉信著「ヨセフの見た夢」(41章)より
最近ふと、ヨセフの生涯を考える。
「それから二年の後」
聖書は事実を淡々と書く。そこに感情が入らない。
クリスチャンホーム育ちの自分としては、
どうしても結末を知って読む癖があって、
「最後は総理大臣だから♪」と楽観的に読んでしまう。
でも聖書をリアリティーをもって読むとするなら、
このヨセフの生涯はとても耐えられるものではない。
主が彼とともにおられたのに、なぜ・・・?!
その箇所その箇所では、理解できない。
ヨセフも人間だし、同じように感情を持っていた。
どれだけ苦しい中を通らされただろう。
牢獄から出ることができる、そういう希望が、
ようやく手にすることができるはずだった自由が、
何日待っても音沙汰なく、二年間過ぎることになる。
「それから二年の後」
と、聖書は書く。
ヨセフにとってどれだけ苦しい時だっただろう。
誰からも見放されたような気持ちだっただろう。
でも・・・この二年間の中にあっても、
間違いなく、絶対に、「主は彼とともにおられ」た。
そしてこの神さまは、どのような状況の中にあっても、
ヨセフとともにおられたように、私たちともともにいて下さる。
何も変化がなく、見放されたように思える時がある。
でもそのように思える時であったとしても、
主は私たちとともにいて下さる!!
うまくまとめられないけど。
「それから二年の後」
「主は彼とともにおられ」
この聖書のフレーズが頭から離れない!!
神さまの摂理の大きさに、圧倒されそうだ!!